朝日新聞1999年4月
 1999年4月23日(金) 朝日新聞朝刊の富山版。 廣栄通信社の企画によるシリーズ「はるかなりわが母校」という広告企画で、富山高校を特集していただきました。
 ふつうの新聞記事より文字が小さいため、広告記事画像の下に本文の内容を転載いたしました。 富校の杜については後半に書かれていますが、全編通して読みごたえは十分、はじめからじっくりとお読みください。 なお、記事の周りには各界でご活躍されている富校卒業生の方々のメッセージ広告が掲載されていました。
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はるかなりわが母校(約70KB)

富山県立富山高等学校 校長 村井 和
 富山県の誕生直後に設立され、「我北陸の 中枢に・・・」と歌われた富山中学から、「清らなるもの 額にせまる・・・」と歌い継がれた富山高等学校は百十余年の年月を経た県下一の輝かしい歴史と伝統を誇る高等学校であります。
 緑濃い老杉古松に囲まれた通称「太郎丸の杜」の環境の中で醸成され、発展してきた校風は、創設のきっかけとなった若者の「学びたい」という教育の不易の部分として生徒たちの心底に受け継がれています。
 富中以来の校訓「慎重自ラ持シ 敢為事ニ当ル」は、本校に関わったすべての人々の拠りどころであり、生徒たちにとっても学校生活の基本指針となっております。
 また、二万七千有余の同窓生は国内外で活躍し、その姿は在校生に多大な影響を与え、新世紀に向かって力強く歩み出しております。
 卒業生の皆様の、一層のご活躍、ご発展をご祈念いたしますとともに、母校への倍旧のご支援、ご協力をお願い申し上げます。

煙で真っ黒け少女が風呂上がり美人に
教科書なくても工夫して贅沢な授業が

 昭和十六年十二月に太平洋戦争が勃発した、まさにその年に入学して、昭和二十年三月終戦直前に卒業したOBたちこそ、一番学業から遠ざけられた世代だろう。 教練、勤労奉仕、学徒動員で工場勤め。呉羽の駅から歩いて通い陸軍の大砲の弾の信管をつくる工場の旋盤で研磨させられたりなどしていた。
 それでも富山薬専に入り、八月一日の入学式まで小学校の代理教員をして過ごし待った、あるOBはその入学式当日が富山大空襲であった。 今の大山町の田舎の家から、富山の街に焼夷弾が熱い雨のように降り注がれるのを見た。それはやはり忘れがたい強烈な体験である。 そうして富山で被災した遠い親戚一族が疎開して、田舎の家にやってきた。中に煙で真っ黒けに汚れた女の子がいた。お風呂に入った。 何とか裸を見れないものかと思ったが、見れるはずもない。風呂からあがってくると、みちがえるような美人になっていた。 びっくりして、もちろん胸ときめかせたのはいうまでもない。女学生の四年生、つまり年も変わらない。 その一家は母の実家のお寺へと、さらに疎開していき、それっきりとなった。大空襲と風呂上がりの美少女が対になって、ひとつの思い出となった。
 戦争直後は生徒に教科書はなかった。あっても新聞紙に刷られたものが配られて、それを折り畳んで使うのだが、文章が途中でちょん切れていた。 英語などもあるはずがない。先生が口でしゃべるのを聞いて、耳が頼りの授業となる。耳で聞いたものを、カナで書いてるものもいた。 very well を「ベロベロ」みたいに発音して、そんなあだ名がついてしまった生徒もいた。
 終戦を境にして、教育はがらりと変わり、生徒たちもとまどい、先生方も大変苦労された時代だった。 しかし鬼畜米英変じて民主主義という、驚愕の転換を味わった世代なればこそ、本とかに書かれたものを鵜呑みにして、言われるがままに詰め込んだ知識ほど危ういものはない、と肝に命じる。 本当のところはどうなんだろうと自分の頭で考えてみることの大切さが自然と身に染み付いていったという。
 新制高校になるとようやく教科書がそろってきたが、それでも一般社会の教科書はまだなかった。 それでやむなく、先生は手持ちの岩波文庫のたとえばジョン・ラスキンの「胡麻と百合」とか、カール・ヒルティの「幸福論」「眠られぬ夜のために」などを教材として使ったりした。 先生自身がなんらかの考えるヒントをえた読書体験に基づく選択だろうから、ある意味では非常に贅沢な授業だったのかもしれない。

頭脳プレーで勝ち取った執念の勝利
長髪は鬼だと鬼は外するのかと新聞

 昭和三十年卒のあるOBはテニスの部活に打ち込んでいた。進学熱が高まっていた頃で、クラブ活動する生徒も減っていた。 それでもテニスに打ち込んだおかげで、二年三年生と続けてダブルスで国体に出場することができた。 二年生の時はベスト8に勝ち進んで、試合が終わるとわっと取り囲まれて、有名大学が競って熱心に勧誘してきたものである。 反面、おかげで学校の成績は急降下していた。
 三年生になるとさすがに、勉強に心が傾いていき、練習も早めに切り上げて、遅くまで熱心に打ち込むことはなくなっていた。 それでもテニスはやめなかった。国体の会場がその年、北海道と決まっていた。北海道になんとしても行きたかった。だが実力は去年と比べたら、数段落ちている。 競合揃い絶対勝てっこない甲信越大会でそれでも決勝まで進み、その決勝戦もやばいとこまでいったが、逆転して勝った。 それも駆け引き、間合いで、相手の気持ちをはぐらかす、いわば、ずるいテニスで勝った。 ファーストサービスはゆるい球で打ち、前に出て来れないようにしたり、弱点を徹底して攻め、相手のミスを待つとか、 セットの合間にコソコソっと言い合って、相手に心理的に微妙ないらぬ警戒心や動揺を与えるなど、よくいえば頭脳プレーで勝ち取った勝利だった。
 しかし国体ではもはや通用せず、コロっと負けてしまった。大学からの勧誘も手のひらをかえしたように全然なし、皆無となった。 それでも高校時代にテニスに打ち込めて本当によかったと思っている。それからは勉強にまた打ち込んだのはいうまでもない。
 卒業に間近の節分の日に、ひとつの事件があった。朝礼のときに、三人の生徒が呼ばれて、前に立たされた。その一人になってしまったのである。 当時は規律が厳しく、皆坊主頭だったが、卒業がもう近いということもあって、髪の毛を伸ばしっぱなしにしていた。 その長髪まかりならぬというのである。長髪といっても、今とは違う、二三センチのびたにすぎなかったが、それでも当時は目立ったのだろう。 女子生徒の髪がのびたほうがかわいい、という甘言に乗せられてついついのばしていたのが後の祭り、壇上では素直にこわかったという。 だがその三人の中の一人の兄貴が地元新聞社の記者をしていて、これを新聞記事にした。 節分の日にかけて、長髪は鬼か、鬼の首でも取ったよう長髪はいけないと鬼は外するのか、と退学の話もでたらしく、生徒たちをかばうようなものだった。 そのせいでもあるまいが、なんらおとがめはなかった。
 新聞とはおせっかいなものだと、学校側では思ったかもしれない。 ただ権威とか規律に汲々と追随するのではなく、どんなことでもこれでいいのだろうかと自分たちなりに考えてみることも必要だろう。 新聞に書かれたことだからって鵜呑みにすることはない。ただ考えるよすがになってもらえればよいのではないか。

ホームページ「富校の杜〜富山高校〜」は凄い
制作者も一生徒から一番若い百十一期卒業生に

 ちなみに長髪解禁は昭和四十四年だったようである。 「富校の杜〜富山高校〜」という富山高校に関する情報満載のホームページに、富校の思い出として83期生K・Fさんが長髪解禁に関して投稿している。 当時はもう三分五分刈りだったが長髪解禁を望む生徒の声が強く、当時生徒会長のK・Fさんと校長先生が交渉し、非行が増える懸念、 オシャレに気を使うと勉強の集中力をそぐなどで難色を示されていた校長先生も最後にこういって長髪解禁を決断されたといいます。 「時代というものは変わるものである。今は、長髪にするといけないといっているが、時代が経てば短髪がおかしいということになるかもしれない」と。 K・Fさんは大変な感銘をうけたというが、くわしくはインターネットでの「富校の杜」の一見をお薦めする。
 ちなみに学校ホームページで優れたものを選ぶ朝日新聞社主催の「第三回スクールページコンテスト」で審査員特別賞に輝いている。 だからいいというのではなく、実際私の目でみて本当にこれは楽しいスグレモノである。 生徒ならではの日々母校を徘徊しての、いわば校内を歩行探索しているような視点が新鮮だし、 初々しい好奇心と問題意識、そしてなにより熱心で素朴な母校愛にも満ちておおいに好感がもたれる。 多数みてきた高校のホームページでも、見応え充分圧巻の、三本の指、ベストスリーに入るだろう。
 中でも「富校生の一年」や「富校大百科事典」など是非見てほしい。文字で書かれた情報だが、まさに目の当たりに映像が浮かんでくるような、 今そこにある富校内をいっしょに経巡っているような、バーチャルリアリティなんぞの映像も顔負けの表現力である。 しかもこれらすべてが、類まれなる集中力と想像力と根気をもつ、たった一人の生徒によって創られたのが何より驚かされる。 だから学校はいっさい関与していない。というよりも、今もって認めようとしていないようである。そうであるなら、誠に残念なことである。
 学校が単に知識を授け詰め込ませるのではなく、生徒の自主性を重んじ、自分の頭で考えさせる着想力を養う、 何かを逆に引き出していく想像力にこそ期待し培う場であるなら、快挙として褒められこそすれ、 一人のハミダシ生徒の勝手な振る舞いと退けられるのはあまりにさびしいことである。 さいわい「富校の杜」は開かれたインターネット上のホームページである。 ほかにも興味深い読み物と最新情報も満載だし、誰でもオープンに見れて、必要とあらばEメールで投稿も可能だ。 まず自分の目で確かめられてみたらいかがなものだろう。
 また制作者の横田幸之介さんも一生徒から今年早稲田大学に入り、もはや一番若い百十一期卒業生となった。 個人的愛着もあろうが、いずれは一個人にとどまることなく離れて、この「富校の杜」も順次、 在校生に引き継がれ代々維持されていってこそ、本当の価値がでてくると思うのだが、いかがなものであろう。

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