「学びたき若人集い」
 「学びたき若人集い」とは、百周年記念賛歌の一節にある。 富山高校の創校にまつわるこの話は、富校の校風をかたちづくったものとして新入生に話される。

 本校は、富山県中学校の名称で、明治18年1月25日に富山市総曲輪(現在の富山県商工会議所ビル付近)で生まれました。 石川県から分離した直後、財政事情が極めて悪かった富山県に本校が設立されたのは、全く生徒の熱意によるものでした。 明治17年3月、現八人町小学校の卒業式当日、卒業生10人が師範学校以外に進学できる学校がないことを訴えました。 その訴えが臨席していた県知事を動かし、中学の新設を約束させたのです。 その6月県議会は3221円の中学建設費を計上したのですが、これには校地費、校舎建築費は含まれていませんでした。 しかし「学びたい」という生徒の熱意は県民をも動かし、50銭、1円という有志の寄付が7000円にもなり、本校ができたのです。

 こうしてできた本校には県下各地から生徒が集まったのです。 それだけに授業は厳しく、生活の貧しさも手伝ったとはいえ、128人の第1回入学生のうち卒業できたのは、わずか23人にすぎませんでした。 このような状況の中で、生徒の学習は真剣なものでした。 明治20年、たまたま本校を視察していた森有礼文部大臣が、授業中の生徒に突然英語で質問したところ、その生徒はすらすら答え、大臣を感心させたといいます。

 その後様々な事情の変化に伴って、校名も富山県尋常中学校・富山県富山尋常中学校・富山県第一中学校と変わりましたが、明治34年富山県立富山中学校と改称され、以来新制高校になるまで校名は変わらず、県下に富中(ふちゅう)の名で親しまれました。

・・・入学のしおりより

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