勝手に富校メヤスバコ
 日頃より富校の教育方針、富山県の教育風土、ひいては日本の教育システムにまで関心を持ちつつ、いまだ答えを見いだせない幸之介による公開メヤスバコ。 また、富校の杜にいただいたご意見メールもどしどし掲載していきたいと思います。賛同、反論、お待ちしております。
    ご感想はこちらまで   

◇ここでの掲載は基本的に本名にておこないます。イニシャル表記希望の方はご明記ください。(姓、名の順です)
◇ご投稿はどんな観点のものでもかまいません。これまでの投稿に関係ないものでもOKです。
◇新着の掲載は上から順に追加していきます。

◆やまだ丸の航海日誌
115期生 山田明憲 2001/10/19
 まずは航海に入る前の裏話から。
 本来は生徒会長が選出される際は、まず、立候補者がどうのように考えているのかを立会演説で話し、それに対して生徒が「では、○○に投票しよう」という形であるべきです。 そうやって選ばれた生徒会長は、演説で話した内容を公約として、全力を挙げて達成する努力をしなくてはなりません。
 しかし、今の制度はどうでしょうか。「ひさしぶりの選挙」が物語っているように、ここ数年間は 「なんとなく、生徒会長が決まっている。そして、いつの間にやら新しい生徒会長に変わっている。」 ということがあたりまえ、という状態が続いていました。 少なくとも僕たちが一年生の時は。僕自身も一年生の時は生徒会への関心というものは一切ありませんでした。 また、きっと誰も関心なんて持ってないだろうと思っていました。皆さんは関心を持っていましたか?おそらく持っていなかったでしょう。
 これではいけないということでどうしたら関心を持ってもらえるのかを考えた結果、選挙というところに行き着きました。 選挙によって、「自分たちで選んだ生徒会長なんだ」という気持ちから少しでも関心を寄せてもらいたかったのです。 そこで生徒会に「野党」という新しいものを取り入れて、(いや、別に野党である必要もないのだが)生徒会への問題提起を中心に活動したいと考えていた。
 ところがどうだろう。いつの間にやら、前期の生徒会長も決まってしまったのである。 噂に聞くところでは、たいてい生徒会長は学年担任団による強い圧力で一人が立候補してそのまま無投票で決まっていたようです。 僕が立候補することでその「先生党推薦」候補と「野党推薦」候補の二人で選挙を行える、と期待して立候補をしたのです。 ところが、前期の生徒会長に「先生党」は候補者の擁立を行わなかったのです。 つまり僕が一番避けたかった無投票当選の生徒会長に僕自身がなってしまったのです。僕の計画はまずここから崩されてしまいました。

 斯くして、例年のように自分の意見が支持されているのか、どうかもわからない状態で、前期生徒会がスタートしました。
 六月の球技大会は高校総体県予選の十日後だったため、準備期間が短く、当日になっても、本当にこれで成功するのか心配でした。 この頃から校則の改正について考えるようになったのです。
 詳しくはあとで述べますが、僕自身は制服自体をなくすべきであると考えています。 ただ、今の富山高校には校則改正の動きが一切ありません。 その動きを作らないことには上手くいかないのではないかということで、まず、靴下から始めてみようかということになったのです。 僕と平木の演説の中で靴下に冠する部分が重なっていたのにはこう言う理由があったのです。
 九月に入って、体育大会・文化活動発表会と、富山高校の二大行事とも言える、大きな行事が二つ続けてあります。 夏休みの後半は体育大会の選手名簿作成に追われていました。 体育大会後は、体育大会が雨のために延びてしまったので、文化活動発表会の食券の作成を急ピッチで進めました。 文化活動発表会では、文化委員長高尾君が大変忙しそうに働いていました。 また、各係りで一所懸命働いてくれた皆さん、ありがとうございました。この二大行事も大成功のうちに終了することができました。

 さて、先日の選挙の結果後期生徒会長は平木柳太郎君に決まりました。 今回の選挙で、富山高校の校則について今一度見直してもらえたと思っています。
 これから変えていくほうがいいのか、それとも今のままがいいのか、真剣に考えていかなくてはなりません。 富校の歴史に新たな一ページを刻むということも忘れてはなりません。 「守れなくなったルールは、守れるように変えよう」という考え方ではいけません。熟慮に熟慮を重ねることが大変重要となってきます。

 また、制服についてですが、制服がどのような理由で作られたものかは僕にはわかりませんが、感受性の強い高校生時代に「制服」という形で唯一のものに制限してしまうということは、感性や自主性が損なわれるのではないかと僕は心配しています。
 世の中で「画一的だ」などとして、個人の独創性を求める声もあがっています。 これからはますます独自性、特長というものが重要になってくると思います。 何かひとつのことしかできないのでは、考えが固定化されてしまい、自分のアイディアも上手く実現することが難しくなってくるのではないでしょうか。

 今回の選挙で落選したことで当初の目的であった野党活動に全力を挙げて取り組んでいきたいと考えています。

 最後に山崎君、平木君、大島さん、水橋さん、舛田君、七田さん、各委員長の皆さん、そして後期生徒会長選挙で山田に投票してくれた皆さん、半年間ありがとうございました。 そしてこれからも富山高校が前進していくように全力を尽くしましょう。 みなさんのような人達がいる限り、わが富山高校が歩みつづけることを確信しています。

▼以下は「とみこう掲示板」に寄せられた投稿です▼
こーそくかいせい
frailty@114 投稿日:2001年10月5日<金>19時25分
ぜひぜひ、後期生都会には成功してほしいですね。
立会演説会で気になったこともあったけど、今は校則の話をば。

校則改正、言ってみれば生徒の自由権拡大は、僕の夢(笑)です。でも僕は、前にも書いたように自分からそのチャンスを放棄してしまいました。自分の弱さゆえに。。。
その点、新生徒会長には(どちらがなっていたにせよ)期待が持てそうです。ただ、僕のような愚か者にもそれなりの考えがあるので、ちょこっと書かせてもらいます。

一つ。富校日記に山田君がすでに書いていることとかぶりますが、「守りたくないから変えろ」的な考えだけでは、多分話が進まないだろうと言うこと。それどころか実は、「守るから変えよう」なのです。最低限必要なことは、改正された校則をみんながしっかり守ること。さらに改正の条件はおそらく、現行の校則を守ること、となるのではないでしょうか。兎にも角にも、富校の「退廃」の歯止めが要求されるでしょうね。時代にそぐわない。それはそうです。でも、ルールは守らなければならない。「ルールは破るためにある」なんて、誓約書を持ち出すこともなく言語道断です。生徒がどう思っていようと、「ほら、僕たちはちゃんとルールを守ります。だから、これこれはもっと自由にしましょうよ。責任を僕たちに負わせてくださいよ」というのがスジのはずです。

二つ。立会演説会では、女子の靴下やスカートの話が象徴として引き合いに出されていましたが、僕にとっては「だから?」てな感じです。延刻は絶対改正した方がよいですね。他にどれだけ具体案が出てくるか、心待ちにしています。

さて、我が校の抵抗勢力は、橋○派に比べどうなるでしょうかね?

初めまして〜☆
卒業生 投稿日:2001年10月5日<金>17時47分
富山高校2001年度(っていうか今年)の卒業生です。
受験も近くなってきたことだしここでひとつ。
自分は某私立大に通っているのですが、富山高校はおそらく
今も国立大学崇高主義(笑)だろうと思います。
そこで江頭2:50のあんたに一言物申す!(指差して)
じゃないですけど(馬鹿)言いたいことがあるんです。
はっきりいって関係ないですよ。国立大だろうが私立大だろうが。
学校はやたらめったら国立大を推薦しますけど、やってることは
なーんもかわりゃあせんよ(名古屋弁)。
自分に合うほうを選ぶのが一番なんです。
とまあ偉そうなこと言ってますけど、自分が言いたいのは
学校のいいなりになっちゃうのはどうかなぁってこと。
もしかしたら親も国立大学崇高主義かもしれませんが、
そんなことはありませんよ。入ってしまえば私立も国立も
大学の雰囲気はそんなに変わりませんよ。ただ、自分に合わないと
国立でも私立でもつまらないことになってしまいます。
そういう意味で試験関係以外の大学の下調べはかなり重要ですよ。
学校では手に入らない(教えてくれない)ような情報も大切。
例えば企業アンケートでどこの大学卒の新入社員がより使えるか
なんていうのでは1位が三田にある某有名私立大で、あの赤門で
有名な某国立大なんかは7位っていう結果も出てますし。
ばればれですけど。
これはほんの一例ですけど、国立大がベスト!っていうのは田舎の
思い込みだっていうのを証明するいい例だと思いますよ。
でもこれが全てっていうわけでももちろん違いますよ。

ずいぶん長々と自己満足的に語ってしまいましたが、
最後にこれだけ。自分は学校の反対を押し切ってよかったと
思ってます。
ただ、富山みたいな田舎者はしばらく都会の雰囲気や価値観に
慣れるのにけっこう大変だと思います。人によると思うけど。
ちなみに自分は悪戦苦闘中・・・・・。
田舎にいる時は都会に憧れるけど、いざ来てみると故郷が恋しく
なるもんなんですよ。ないものねだりで。

こんなこと書き込みしたの先生にばれたらくそしかられるだろうな。
けっこう危険な思想なんだよね、これ。自分はうまくいったから
いいけどさ(最低)。
毒に化けるか良薬に化けるか・・・。それはあなた次第。
この書き込みのせいで俺(私)の人生台無しだ!なんてことに
ならないのを祈ります。本当に。責任取りようないし(最低)。

ほんとに長い書き込みしてすいませーん!それじゃ。

▲以上は「とみこう掲示板」に寄せられた投稿です▲


▼以下は「とみこう掲示板」に寄せられた投稿です▼
殺人的
112の新聞ライター 投稿日:2001年9月17日<月>00時13分
富校の学習は(あるいは中部もそうかな)殺人的です。入学したてのころは睡眠時間は二時間でした。理由;予習。これがないと一年時は授業が始まらない。予習だけでは勉強にならないので、自主的に学習。予習は一年のとき基本的に必要な科目はやってました。おかげで睡眠不足。イライラする&無気力な日々が続き、憔悴した僕を見てクラスメートその他は僕をヤバイと思うように。これにはまいったね。二年になってからはある程度手を抜くことを覚えたので、寝まくりました。言えることは授業中あてまくる先生は頭がいいとは思えないし、予習その他宿題は確かに力にはなるが必ずやる必要はないということです。事実高二の時はクラスメートの間で授業にかわるいい参考書を探すのがブームになってました。僕も参考書買うのに二‐三万は使いましたね。
http://eggtown.gaiax.com/home/jadgedred

うーん。
ネオン@113回 投稿日:2001年9月16日<日>23時32分
むしろ私は、「提出しろ」という言葉があったからこそ
課題を頑張って、勉強時間が結果的に増えて、
大学に受かることが出来たと思っている。
だから、「提出しろ」システムはプラスの人もいるよ。
でも、その逆の人もいることは確か。
自分のペースでやりたい人にとっては、まさにそのシステムは
マイナスです。では、どうすれば?

私の考え。課題をいっぱい出して「提出しろ」という
システムは、継続すべきだと思う。
自分であまり勉強できない人は、この流れに従えばよい。
ただ、提出しなかった場合に、あれこれ説教したり、
点数下げたりするのはどうかと思う。
提出しなかった場合は、その人は自主的に勉強してるんだと
みなしてほしいな。

ただ、それで成績がどんどん下がるようなら、話は別だけどね。
面接のときに...(!?)

事実・・・
赤毛のアン@113 投稿日:2001年9月16日<日>21時48分
俺が高校卒業して、○○校に通い始めてからは、学習意欲が
大幅にアップした。
高校の時からは信じられないくらい勉強が面白くなってね。
思い起こせば小・中の頃の学習意欲は凄まじかった・・・。
が、突然高校に入ってから・・・。
理由はやはり前にも言ってた事+山田君の意見ですわな。
ちなみに名前一緒だね(==;>山田君(爆)

俺はまぁ、高校に入ってからというもの、宿題というものを
出した記憶がない!
でも、やってなかったというわけでもない。
きちんと自分のペースに合わせた学習をしていた。
なのに、何故高校側から出される超特急のようなスケジュールに
従って課題をやっていかなければならないのか・・・
明らかに富校のそういったやり方は生徒の学習意欲を削いでいる。
むしろ、学習意欲そのものを削いでいるようにも思える。

人にはそれぞれ自分なりの勉強スタイルがあると思う。
もちろん学ぶ上での個人差だってある。
なのに、教師陣は「他の人にできてお前にできないはずがない」
と言わんばかりに”強制的”に勉強させている。
波についていける生徒もいることはいるが、全員がその波に
ついていけるはずがない。
もっと生徒一人一人を信じて欲しい。教師陣の思いもわからんでは
ないがね・・・。

毎年学年集会でこんなことが言われてるでしょう?
「去年よりも課題を減らしたからできないことはない!」
これ、毎年の恒例台詞とでも言っていいんじゃないでしょうか?
実際確認取りましたし・・・。レトリックも甚だしい!
これじゃ生徒との信頼関係が崩れていく一方だと思うけどなぁ。
まさに現代教育における課題だと思いますよ。

っと、長くなってすみません〜(==;
もうすぐ文活だねぇ。。。また行きますんで、皆頑張って
ください☆

こんなこと言えた立場じゃないけど
frailty@114 投稿日:2001年9月16日<日>13時27分
週末課題に便乗して、いろいろもの申す……つもりだったんですけど、長くなりすぎたので、かいつまんで富校批判など。

教師陣は生徒の自主性をあまりに信じていない。それ以上に、生徒は自主性を発揮していないし、アピールもしていない。
先生方へ。富校入ったからって(入試まで間があるのに)勉強をやらされるのが嫌な人もいれば、自分からちゃんと勉強するのにわざわざやらされるのが嫌な人もいるし、乗り気じゃないけどそれなりに課題をやる人もいる、こんな当たり前のことをしっかり踏まえて対応してほしい。富校はガリ勉集団ではない。「まなびたきものつどう」は、全てにあてはまるわけではないです。こんなこと言っては失礼ですが、生徒の成績ではなくて、「富校の成績」を心配しているように思える。
生徒(自分を含む)へ。陰でぶつくさ文句言うな!ちゃんとした意見を持ってるんだったらはっきり教師たちに発言して議論しろ!行動しろ!・・・これは1年前の自分自身への叫び。僕はいろいろできる立場にいたのに、何もしなかった。。。
先生方からは、ルーズソックスだなんだと言われています。学校の中では、ルールは守らなくてはいけないんです。それは、学校が一つの社会だから。ルールを守った上で、初めて交渉ができるようになります。校則を変えたかったら、まず校則を守ることです。校則守って、校則変えようよ。

よく、伝統だ、伝統だなんぞと言われます。伝統とはなんぞや。押入の奥深くにしまって、大切なものだからと手も触れずにいる信仰の対象なのか。否。それを受け継ぐ皆で、磨きをかけ、常に新しい空気を送り込むべきものでしょう。いくら長く受け継がれてきたものであっても、カビの生えたものを大切にする気にはなれませんからね。
「学びたい熱意」から学校が生まれた。すばらしいことです。でも今では、学校じゃなくても勉強できます。もちろん、勉強には人との交わりが必要ですが。思うに、受け継ぐべきは「〜したい熱意」この部分です。僕も、みんなそれぞれが行きたい大学に行けたら最高だと思います。また、偏差値の高い大学ほどあとが有利(こういう言葉は使うべきではないけど)という現実もあるでしょう。それでも、勉強部活・ボランティアから、趣味に至るまでの熱意が活きるような学校であってほしい。高校は○○校ではない。

そして、勉強について。生徒同士が教え合うような場を「自分たちで」「自分たちのために」作るべきです。テスト期間の放課後とか。もちろん、強制はなし。こういうことを始めるのも「熱意」でしょう。何事にも受動的な(僕みたいな)生徒を引っ張るのは、熱意を持った教師では断じてなく、熱意(と、行動力)を持った生徒です。そして、最小限のアドバイスと最高の授業を提供することが、熱意を持った先生方の役割だと、僕は考えます。

って、十分長くなったなぁ。これでも半分になったけど(笑)。

赤毛のアン@113 さんと同感
山田 明憲@115 投稿日:2001年9月16日<日>06時10分
“仮に週末に勉強するとしても”←この表現はよくないと思いますが。
そもそも勉強とは自分のしたいときにするべきものであり、したくない人に強制させてまでさせるものではありません。
でも、勉強って楽しいものなのです、ほんとは。宿題だってその後に「提出しろ」と先生が言わなければ、わりとおもしろい問題を先生がわざわざ探してくれるのだから、自分で探す手間が省けるので好きです。(自分で探すとつまらない問題も自分で一度見なければならない)
勉強とは決してやりたくないのもでもないし、嫌なものでもありません。
何が嫌なのかというと「提出しなさい」この一言だけです。
だいたい宿題を提出するって言うのはやらされてる感じがして嫌いです。提出を拒んだら、自分だけのためにやったんだという気がして、気持ちいいです。(まあ、小・中学校の自由研究などは“自分はこんなことを調べたんだよ”と先生に自慢したくなることもありますけど)

ついでに某先生は「宿題を増やしたわけではない」と言っていましたが、今のところの予想としてはテスト範囲表に“週末課題として出した分”という記述がありそうで、本当に宿題・テスト範囲を増やしてないというのであれば、そのアピールのためにもテスト範囲表を配って「範囲のうちこの週末は**(教科名)を@時間しなさい」という形式にするべきです。そうでないとあの先生はうそつきだと思い込まれるだけです。(事実自分たちはそう思ってます)

北関東系尊師さんのいう「週末テスト」というのもその週の授業の復習として行うのであれば、納得できます。(しかし、各クラスごとにその週の授業数とか、進み具合が違うだろうから学年担任団たちは七通りのテストを作る必要が出てくるので不可能だろう)

僕の自論として、「宿題はやってあるのなら提出する必要はない。しかし、やってないのなら提出する義務がある」こういうのものを持っています。周りの人にはあまり受け入れられませんが…。

とは言え、集中すれば一時間半で見直しまで終わってしまうものなんでたいした苦痛はありません。むしろ自分のやりたい勉強ができなくなってしまう(週末課題が終わったという満足感・達成感のようなもので)代償のほうが大きいかもしれない。

※注目
今年の文活で2−Rの僕の班では「受験生必見、勉強の効率を上げる方法PARTⅡ」を企画しています。ぜひご覧ください。

▲以上は「とみこう掲示板」に寄せられた投稿です▲


◆富山県の教育情報化、コレが最後のチャンス?
111期生 横田幸之介 2001/8/7
 富山県は、数値上、学校のインターネット接続率が全国的にもトップレベルにあるそうで、他県の教育関係のひとからはたまにほめられてしまうことがあります。 また、山田村の情報化政策は全国ニュースにも取りあげられ、富山全体の情報化イメージをねじ曲げているのかもしれません。 もっとも、山田村の報道については、ご想像通りの「パソコンを使いこなすおばあちゃん」的なものが多い中で、「パソコンをバラまいただけで実際に活用しているのはごくわずか」といった批判的切り口の内容もごくたまに見られることも知っておくべきです。

 ともあれ、教育現場で本当にパソコンやインターネットが活用されているかといえば、その実態は富山高校の生徒ならよく知っていることだと思います。 ずっと閉ざされたパソコン教室。一般の生徒は3年間で何回入ることができるでしょうか? 入るといっても、それは64kbpsのISDN一本でおこなわれる年に一度程度のパソコン利用授業。 光ファイバー化の計画もあるようですが、それを活用した授業について真剣に考えている教員が、富山にはどれだけいるでしょうか。 富山県下の学校のホームページの現状をご覧ください。 むしろ富山高校の公式ページが比較的華やかな部類に入ってしまうのですから困ったものです。 「○○全国ランキング一位」が大好きな富山のことですから、「カタチだけでもホームページを」という上からの指導があったのでしょうか。

 さて、そんな富山県で今年の10月、第27回全日本教育工学研究協議会・第15回コンピュータ教育研究協議会・第7回全日本情報教育研究協議会全国大会富山大会なるたいそうな大会が開催されます。 しかし、公開授業ホスト校以外の富山県の学校から、参加者はいるのでしょうか。 東京のこういった大会では、富山県のかたにお会いしたためしがありません。全国から学校関係者が集まるにも関わらず、です。 今回の大会は、富山高校からどなたか行かれるのでしょうか?参加費が出ないなら、掛け合ってください。 他県ではそういった熱意が、学校の情報化を牽引しているのです。めったにないチャンスを逃されることがありませんように。

 ちなみに、開催地側の中心となっている富山大学の教育学部は、県下でも数少ない、情報教育への熱意と取り組みをを全国的に誇れる機関のひとつです。 情報教育の分野で全国的に活動しているK12JERICといった団体の関係者からも、富山大学のことが話題に出ています。

 この大会を契機に、富山の情報教育熱が高まることを願っています。

◆学校全体で64kbpsのダイヤルアップ接続(2001/7/1現在)であることを受けて
111期生 北関東系尊師さん 2001/7/1
 IT革命真っ盛りの時頃に、自分の母校がこの有り様と言うのはなんとも遺憾なことで、同時に反動的だと批判せずにはいられませぬな。
 県内随一の歴史をほこるのなら、新しいことも積極的に採用すべきだと思います。
 森先生にお願いしてギガベースの校内LANを構築して各教室にモジュラージャックを設置してもらったり。 それ以前に富山高校の「公式」HPをもう少し華やかにしなきゃなりませんなあ。 あれは初心者でも作れそうなコンテンツですヨ。 現行のはなんとなくモノトーンでなんだか陰鬱な気分になってしまい、早々に立ち去りたくなるような雰囲気が漂ってます。
 まあ、高校のHPは客寄せパンダではないと言われたら「ああ、そうですか」と答えるしかありませんが…。 MacroMediaを自在に操れる人が必要ですね。
 どうもこの高校はそういったものを女々しいものだと言下に否定して「学習こそ真理」と言ってお茶を濁してしまう傾向にあります。
 その質実剛健さが富山高校の良いところであると同時に、21世紀を迎えた学府としての最大のウィークポイントだと思います。
 とにかく「先進情報モデル校(管理人注:富山高校は「こねっとプラン」に応募した上で参加している)」の富山高校はもっとITの草の根教育に気を配るべきです。

 ちなみに私の通う大学は、ダイヤルアップではありますが、学生の自宅から大学のサーバーに直接ログインでき、民間のプロバイダに接続せずしてインターネットを楽しむ事ができ経済的です。もちろんそこの学生でなければログインできません。
管理人より
 とみこう掲示板にご投稿いただいた内容を転載させていただきました。
 富山高校の公式ホームページは2001年8月7日現在、更新停止から284日が過ぎました。 富山中部高校の更新停止記録である570日には今なお遠く及びませんが、滑稽な争いはやめてもらいたいものです。
 もしかするとこういうことなのでしょうか。「ホームページ担当の某先生にもっと時間を!」

◆おじさんから見た高校の役割
90期生 酒井貴志さん 2000/12/2
 母校のみなさん、こんにちは。何回か寄稿している90回生の酒井です。
 すでに母校を出て22年を経過しましたが、偏に日本の高等教育、特に文科系の人間は、情報処理能力=膨大な情報量の中での判断の速さ、正確さを求められるものと思っています。 ですから今の文部省のゆとり教育のように、国立大学の受験科目の減少は、処理能力そのものと、総合的判断力を低下させていると思います。 文系の人間の就職は、銀行や生損保といった金融系、商社流通、公務員といったところでしょうが、外国で勤務することも多く、世界史や外国語、一方で日本の文化の基礎である日本史、よくないがしろにしがちな、漢文、古文などこそ、意外と社会人になって昔習ったぞ!という知識が役に立つものです。 また、日常業務に直接役立たなくても、お客様との会話で地理や歴史の知識は、思わぬところで役立ちます。
 ですから、幅広くいろいろな知識を豊富に勉強する必要があった私たちの世代=国立一期、二期があって5教科7科目必須の高校のカリキュラム=はそれなりに幸せな時代でした。 勉学は大変でしたが、偏狭な視野に陥ることなく、また膨大な範囲の量をこなす頭、すなわち情報処理能力が養われました。
 確かに、日本の高等教育は、専門家が育ちづらくはあるかも知れませんが、専門家になる人も必ず知っておく最低の基礎知識を身に付ける必要があろうかと思います。 また、本当の意味での専門知識は、大学や企業に入ってからでも十分身に付きます。 ですから、今になって文部省がゆとり教育の見直しを言い出しているのも当然のことでしょう。
 現役の皆さんは、これから受験が追い込みにかかりますが、暖冬傾向とは言え、寒い富山です。暖かくして目標にチャレンジしていってください。 大学に入ってからやりたいことを決めても決して遅くはないと思いますよ。人生50年から80年の時代になったのですから。
管理人より
 先日、邦楽の演奏会に行ってきました。 万葉の歌を題材にしたものなどはお手上げでしたが、江戸を題材にした歌は、詞を読んでも楽しめるものです。
 ・・・とまあ、これは高校の知識が役に立ったというお話ですが、電磁気の物理法則や世界の気候区分となると・・・わたしにとっては出番はなさそうですよね。 しかし、将来どんな仕事に就くかも分からない多くの高校生にとって、どの知識が将来役に立つかなんてわからないのがふつうでしょう。 やっぱり酒井さんのおっしゃるとおり、実は情報処理能力や考える力などを養うことこそ、教育が社会に貢献する最たるものだったのではないでしょうか。
 ここから話をちょっと変えますが、ゆとりの教育ってほんとに効果あるんでしょうか。 発案者である文部省をのぞいて、賛成する識者ってあんまり見かけないんですけど・・・マスコミと教育現場が反対論者だからそうなるのかな? わたしが思うに、内容が難しいから勉強が嫌いになるんじゃなくて、内容に関係なく勉強そのものが嫌いなんじゃないですかネ。 九九を一年生で教えても六年生で教えても、算数嫌いになる子供の割合は変わんないんじゃないですか〜?

◆日本の大学について
111期生 東京大学 2年 真田徹さん 2000/11/27
 真田です。ちょっとおもしろかったのでおくってみました。
 最近国立大学の独立行政法人化が主張されてますが、これは文部省の一連の大学改革の流れで、その目的はというと大学をでて即社会で通用するような技術をもったエリートを養成する、ということらしいです。
 ところが、大学の先生は金をもうける能力がなくて勉強するのが好きな人しかいないわけで、そんな人に文部省のいうエリートが養成できるはずがないんですよね。 そう考えると、日本の教育制度自体が悪いことになり、そんじゃ全部変えちゃおうよってことらしいです。 そこで、大学の飛び級制度が導入、エリートはそれなりの教育してあげるから、能力のない人はドロップアウトしなさいってことになりますね。 そうすると、究極的にはエリートとフリーターの二極分裂社会が出来上がるんじゃないかって心配されてるわけです。 いい例がイギリスですね。まあ結局将来的にはアメリカ型の教育制度をめざしてるわけで、大学には入りやすくなって、受験戦争もなくなるんじゃないってことらしいですが。 そんな簡単じゃないと思いますが。
 問題は、社会経験をもたない、文字としての知識しか持ってない一部の東大生が官僚になるってことですよ。 官僚になりたいっていってる東大生はやはり社会性にかけてますね。だから、大学を変革したいっていうなら官僚制度をかえなきゃだめなわけです。 まあ無理でしょうけど。政治家の意見は官僚がかんがえてるわけですから。
 ということで、日本の大学は永遠にかわらないのでは?ということでした。おしまい。
管理人より
 わたしは二極分裂社会は理想だなぁ、と思っています。 「エリートとフリーター」とはちょっとちがうかも知れませんが、前者はいつでも必要な固定的な労働力。 後者は副業としてのアルバイトのほか、フリーター、契約社員などを含む、自由に変動できる労働力です。 イマ風に言うと「フレキシブルでダイナミックに確保と削減のできるリソース」・・・なーんてね。
 必ずしも能力によって分けられるのではなく、繁閑のある職なら変動労働力は必要でしょう。 能力があるのに仕事がないという人材を、仕事のある企業が使う、という簡単な話です。 新製品が出ると一気に鳴り響く電話サポーターとか。営業職も新商品を売るときにはふだんより忙しい気がするなあ。
 もっともっと自由に職を(職種だけでなく、働く期間の点でも)選べるといいなー、なんて理想。転職から「変」職へ。SOHO社会・・・。うんぬん。
 またご投稿と関係ない方向へ話を進めてしまった。なんか「富校」のメヤスバコじゃないですネ。(^^;

◆進路について
松井忠良さん 2000/11/4
 エリート教育と言いますが、今の日本の教育システムでは偽エリートを作り出す事しかできていないのが現状の様です。 なぜなら、東大、京大等のトップ校と言われる学校は(現状では)その生徒の自尊心を満たしているだけで、何ら社会を牽引するリーダーとしての資質を育ませる事ができていないからです。
 昔の話となりますが、旧制の高校から大学には入学試験なしで行くことができました。 その為戦前の高校では政策を語り合ったり、哲学に没入したり、読書に耽ることが可能だったのです。 いわば、今さかんに言われているゆとり教育の端だということでしょうか。片や今の様子を見てください。高校など余裕が無いでしょう。 勉強ができる、頭の切れがいいだけの人が跳梁跋扈しています。 世間はそれでいて良識を持ち、世の中の事を良く知った人たちを求めているのではないでしょうか。
 今の教育システムで育った人たちがあまりに世間を知らなすぎた為にエリートと言う者のイメージが大きく傷つけられたのではないかと思います。 とにかく、今の進学校的教育では人間を損ねてしまうでしょう。
管理人より
 わたしは早稲田大学にいるわけですが、系列校というのがあります。 中学や高校入試でがんばってあとは遊びっぱなし、勉強がまったくできないどうしようもない生徒たち・・・というイメージがありませんか。 ところが、なかには受験戦争と縁のない学舎で、ホントに自分を磨いているスゴイ生徒もいっぱいいます。びっくりしました。(^^;
 受験をなくせば、遊びほうける生徒が出てきます。受験があれば、頭カチカチの生徒が出てきます。 どちらも一長一短、しかし個性を伸ばす教育を目指すなら、受験をなくしたほうが輝く才能をつぶすことはなくなるのかもしれませんねぇ。
 いまの教育システムが、小学校から大学まで生徒を下からグイグイ押し上げるものだとすれば、理想は小学校から中学校くらいでバネを与えて、あとは好きに飛び出しなさい、という感じでしょうか。 ぜーんぜん飛び出さない生徒もたくさん出てくるでしょうが、いまの世の中、フリーター吸収力はいくらでもあるでしょう(問題発言だと思うひとは頭が古い)。 あふれる才能を持って飛び出す生徒たちが、きっとそれを上回る雇用創出をもたらしてくれるはず・・・。
 そううまくいくか?・・・論者じゃないのにムリして極論めいてみましたが、どうなんでしょうか。(^^;

◆進路選択について
鳥取大学医学部生命科学科4年N.Y.さん 2000/9/6
 先日、何気なくお送りしたメールが掲載されており、大変嬉しく思います。 しかし、改めて自分の文章を読み返してみますと、そのつたなさに恥ずかしさを感じてしまいます。
 前回、「自分のやりたいことができる大学(別に大学でなくても、専門学校など何でも良いのですが)に行くべき」という、私の意見を述べさせて戴いたわけですが、では、どうしたらそれを見つけることができるか、という事について、高校生の方に私なりのアドバイスをしたいと思います。
 私は来年の春から、姫路工業大学 理学研究科 生命科学専攻の博士前期課程(修士課程と同等)に進学することになりました。 自分のやりたい研究を今いる大学(鳥取大学)でするのは難しいと考え、そうした研究を行っている研究室のある大学を探しました。 具体的にどうしたかと申しますと、大学に置いてあるパソコンを使って、日本全国の国公立大学のホームページを見ました。 (私立大学は経済的理由から割愛しました。)私は一応、生化学をやっているので(やっている「つもり」かもしれませんが。)各大学の医療保健系、理学系、工学系、薬学系、農学系の研究室と、くまなく探しました。 その結果、姫路工大のある研究室を見つけ、入学試験を受けました。(大学院の入試はだいたい夏から秋にかけてあります。)自分が本当に行きたいと思っていた所だけに、合格の喜びも大きかったです。
 前置きが長くなってしまいましたが、何が言いたいかと申しますと、パソコンをお持ちの方は、積極的に大学等のホームページをご覧になって下さい。 きっとあなたがやりたいと思っている事ができる学校(大学に限定しないため、あえて「学校」と書きます。)が見つかるはずです。 パソコンをお持ちでない方は、残念ながら得られる情報量が圧倒的に少なくなってしまいますが、学校案内の本などで自分の興味のありそうな事をやっている学校を見つけたら、積極的にパンフレットなどの請求をするのも一つの手でしょう。 そうしたパンフレットなどには、一般的な学校紹介の本には書かれていないような詳しい情報が記載されていることが多いものです。 また高校の進路指導の先生がパンフレット等をお持ちのこともあるので、そうした先生に相談してみるのも良いかもしれません。
 進路を決めるにあたって、自分は一体何をしたいのかということをじっくり考える必要があります。その上で大学に行く必要があるのか、それとも専修学校などに行く必要があるのか、あるいは進学する必要など一切なく、すぐにでも就職できるのかということをよく見極めねばなりません。 「みんなが大学に行くから自分も大学に行かんならん」などと考える必要は全く無いと思います。 しかし、私のある畏友が言っていましたが、自分のやりたい事が高校生のうちにどうしても見つからなければ、それを探すために大学に行くということがあってもよいと思います。 (もちろんそういう道はある程度の遠回りになるということは覚悟しなければなりません。) そうした、自分の適性を見極めるために必要かどうかは分かりませんが、高校生のうちにいろんな事を幅広く勉強して下さい。 今は「何でこんなこと勉強せんにゃならんがぁ〜?」と思うような事(ベクトルとか酸化還元とか助動詞「り」の使い方とか...)でも、しっかり勉強しておいて損はないと思います。 あとあと思わぬ所で役に立つものです。私はあまりまじめに勉強しなかったので大学4年生になった時点で「ああ、あの時あれをもっとしっかり勉強しておけばよかった...」と後悔しました。
 この先、皆さんにとって実り豊かな人生となります様に。これほどまでに冗漫な文章を最後まで読んで下さって本当に有り難うございました。
管理人より
 まったくその通りで、大学の情報がいちばんよくわかるのはホームページです。 わたしも受験生のころ、大学のホームページで得た情報は進路決定に大きな影響を与えています。 なにしろ受験宿泊先のホテルでもノートパソコンからアクセスしてましたからね。(^^)
 さてここから話題をすり替えていきますが、どうして富校はパソコン教室を施錠し、生徒に自由にさわらせないのでしょうか。 たしかにセキュリティや費用などの問題はあります。しかしそんな問題を必死になって乗り越えている教員の方々も全国にはたくさんいるのです。 そんな教員のあいだでささやかれる、こんな定説があります。「パソコンに詳しいセンセイは損をする。手間のかかる作業をひとりでこなさなければならず、なにより職員室内に情報教育に理解のある人が少ない」 これは逆に言うと、そんな苦境をものともしない、教育の情報化への熱意があるからこそ耐えることができている、という意味にもなります。 富校にはそんな情熱あるセンセイはいなくなってしまったのでしょうか。
 まもなく「全教室に2台のパソコン」が文部省の指導により配備されます。 このままでは、富校が教室のパソコンにまで施錠しかねないとわたしは危惧しています。ていうか、するでしょ。 「情報化社会には人材を輩出しないぞ」、というポリシーでもあるんですか。

◆Re:進路について
鳥取大学医学部生命科学科4年N.Y.さん 2000/4/2
 確かにその通りだと思います。このような事を書くとあまり良くないかもしれませんが、今では、地方大学の理系の学生よりも、旧帝大系の文系の学生の方が就職が厳しいというような話を聞いた事があります。 つまり、社会の側が、「ブランド」ではなく、「何ができるか」ということの方を重視し始めたのだと思います。 (誤解のないように書いておきますが、文系の学生でも「私はこれができます。」とアピールできれば良いわけで、何も分からない段階では、会社としては、「この人は文学を勉強していたようだけれども、それでうちの技術系や情報系の仕事は任せられるだろうか...」という考えになるかもしれない、ということです。 理系だったら「00工学をやっていました。」などと言えるので、分かりやすいですもんね。)
 就職とは別に、大学に残って研究者を志す人に関して言えば、これは「どこの大学に行くか」という事は全く問題ではなく、「どの先生に付いて、何を研究するか」という事の方が、はるかに重要です。 確かに、旧帝大系、特に東大などは研究設備が充実しています。 しかし、例えば、東大の先生が自分のやりたい研究テーマとは違う事を研究しておられたならば、そこに行ったところでどれほどの意味があるでしょうか? (基本的手技を身に付けるという点においては十分意味のあることかもしれませんが。) もし自分のやりたいことをやっておられる先生が、日本にはおらず、海外におられるというのであれば、基本的知識及び手技を身に付けた上で積極的に海外まで行くべきでしょう。 (しかし、これには経済的問題が付き物ですが。) ですから、僕が大学に入ってみて感じた事ですが、どうして富校生の進学先は皆日本国内ばかりなのでしょうか? 一人くらいは「00がやりたい!」「Dr.00に付きたい!」と言って海外まで行っても良さそうなものですが。 まあ、高校生の段階ではそこまでの情報量もなく、経済的にも余裕がないでしょうが。(なんだか「が」「が」ばっかりですみません。) 僕の通っている大学でも、素晴らしい実績を挙げられた先生の出身大学は旧帝大系からいわゆる地方大学まで様々ですし、多くは留学の経験がおありです。 (ただ、分子生物学の助教授で富山高校理数科出身のM.M先生は留学経験はないのですが、Bcl-10という比較的新しい分子の研究で大変素晴らしい成果を挙げておられます。)
 「どこの大学に行っていたか」ではなく、「何ができるのか」という事がこれからの時代に求められるものだと思います。
 あまり関係ない話なんですが、「富校生の進路」で進学者が0人や1人といった大学もあるのに僕などは「その他国立大学」で一まとめにされるので、何だか寂しい気がします。
管理人より
 確かにわたしもできれば全大学の情報を、しかも学部、学科ごとに掲載したいと考えますし、それが理想です。 実はそのデータはあるのですが、死ぬほど時間がかかってしまうのでできないだけです。申しわけありません。(^^;
 しかし進路といえば、富校の中学生向けパンフレット(と富校公式ページ)には「大学卒業後の進路」という欄があります。 そこには大企業や官公庁がズラリと並ぶわけですが・・・そればっかりよりも「板前」とか「声優」とかも混ざってたほうが楽しそうな学校に見えますよねぇ。 現状では「富校の教育ではこういった分野に就職する道"のみ"が開かれています」と強調しているようでなりません。 ま、それを望む親が多いのもさびしい現実と言えるのでしょうけどネ。

◆「富校生の進路」について(「ひとことふたこと」より)
管理人:幸之介 1999/8/12
 大学受験の見直しだ、エリート指向教育はまちがっていた、などなど、これまでの進路指導体制に世論から波紋が投げかけられて久しくなります。 そんななかで、東大をはじめとする超難関大学への進学実績を誇らしげに掲げ、まるでそれだけが高校を格付ける基準とするような風潮は厳しく非難されてきました。
 富校の杜でも、「富校生の進路」はそんなあおりを受けて、筆者が在学中の頃にいちど「公開があまりよろしくない」旨のご意見を教師のひとりからいただきました。 しかし。当時は「そうか、まずいか」と思ったこともありましたが、いまでは考えが変わり、自信を持って公開し続けています。
 そもそも大学を学歴判断の基準にしかとらえず、偏差値の順にしか並べられないというのがまちがいなのです。 「○○高校の進学実績」をそういう目でしか見ることができませんか?もっといろんな見方ができるはずでしょう! 理系に進みたい生徒は理系の大学に強い高校(いい先生がいらっしゃるのか、そういう校風なのかはわかりませんが)を選ぶ。 家庭の事情で私立進学がむずかしければ国公立に強い高校(カリキュラムの違いでしょうか、校風でしょうか)を選ぶ。 地理的な選択だってあります。地元を離れたくない生徒。南国が好きな生徒。歴史ある街に住みたい生徒。 はたまた、女子大がいいとか、浪人はしたくないとか、○○の研究がしたいとか、○○教授に会いたいとか。
 もっとも、中学3年生の段階でこんなことまで考えて高校を選べるひとは少ないかもしれません。 しかし、このように生徒がさまざまな視点から評価することが、進学実績を公表する目的であり理想であると考えています。
 中学生のみなさん、そしてご両親や中学校教員の方々には、そんな意味で、じっくりと「富校生の進路」をご覧いただきたいですね。
 ところで、どこかの週刊誌は合格者の名前まで掲載していますが、あれはやりすぎですよねぇ。 学歴偏重がどうのこうのよりも、プライバシー侵害の問題です。いまの時代の公立校がすることではありません。
    ご感想をどうぞ。一言でも結構です。  


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